★ 阿蘇の産山村で「草原の学校」を主宰していたときに書いたエッセイです。
九州電力の論文コンテストで賞をもらい、賞金は’ミルフィーユ’(馬の名前)の
エサ代とみんなの活動費になりました!!
子どもたちと農村で、田んぼや畑を手伝ったり、牛の世話をしたり、大自然の中で子どもも大人もいろいろな体験ができる「草原の学校」。
校舎があって、決まった先生、生徒がいるわけではありません。ここでは、子どもも大人も一人一人が先生であり、生徒でもあるのです。
これは、私がお米や野菜を譲ってもらう農家の方々の協力があって、かなっています。
十年程前、私は喘息やアレルギーの症状がひどくなり、それを克服するため、食生活の改善を試みました。安全な野菜、食品を求めて自分の足を運び、農家を訪ねてまわったり、牛の世話や農作業の手伝いをさせてもらったりしました。
私は山の近くで育ったので、子どもの頃は 毎日のように野山を走りまわっていたものです。そして動物が大好きで、家では動物をたくさん飼っていました。そのため、土や動物と触れ合うことは、子供時代にかえったようで、週末、農家に通うのが楽しみになりました。
自然の中での体験や いろいろな人たちと交流する楽しさを、私だけでなく、みんなにも感じてほしいと思いました。
そして、私が教えている英会話教室の子どもたちが一緒に行きたいと言ってきたこと、農家の方が「町の人たちと交流したい」という気持ちがちょうど合ったことで、この活動が始まったのです。
♦ 草原の学校の始まり
そのうち「草原の学校」という名前がつき、村と町の交流の場所としての山小屋が、たくさんの人たちの協力により出来上がりました。
そこには、村のお年寄りの方たちが竹ぶき屋根、竹壁のゴエモン風呂を造ってくれました。
子どもたちは四苦八苦してまきに火をつけます。これが簡単なように見えてなかなか思うようにいかない。
家では蛇口をひねるだけでお風呂に入れるのですが、ここではそうはいかない。でも子どもたちはこのゴエモン風呂が大好きです。
♦アメリカカンザス州のコミュ二ティカレッジにて…
私には前から学校をつくりたい、という夢がありました。10数年前、高校卒業後、アメリカの小さな農村にあるコミュニティカレッジに留学したときのことです。
このコミュニティカレッジとは直訳すると「地域住民対象の大学」です。大学案内を見ると、その町の人口は3,000人。そして学生の人数は800人。
こんなに若い人がいるのか、と思い菜ながら入学してみると、なんと十代から九十代までの学生がいて同じ教室で学んでいるのでした。これには驚きました。
でも、このシステムには大きな魅力を感じました。何歳になっても、勉強したいと思った時いつでも簡単に学校に戻れること。
そして働く社会人のために夜のクラスも多いこと。そして様々な年代の人たちがお互いに刺激し合って、学問のみならず多くのことを学び合っている。
お母さんたちは、子どもたちを連れてやってくるので、その子どもたちは子どもたちで協力し合ってお母さんの授業が終わるのを待つ間、大きな子がよその小さい子の面倒を見る。
私も小さい子どもからお年寄りまで、幅広い友達がいたものです。クラスで学んだこともたくさんありましたが、彼らから学んだことはそれ以上だったような…。
こんな学校が私の町にもあればいいな…ないのなら自分でいつか作ろう!! と思ったのです。
それから、日本に帰って来ていくつかの仕事に就き、その合間には小さい頃からの夢でもある外国の一人旅をしながら、いつも心の中にコミュニティカレッジの夢を持ち続けていました。
そして、子どもたちに教える仕事を始めたことで、実働を始めたのです。
♦学校に行かない子どもたちに出会って…
子どもたちの感性に感動することもある反面、ストレスを背負い、学校に行きたくない、家に帰りたくない、という子どもたちの姿を見ることの悲しさ。
今の学校、教育、家庭、社会のあり方が及ぼす子どもたちへのしわ寄せ、弊害を目のあたりにしたのです。
私は小さい頃、豊かな自然の中で走りまわり、のびのびと育つことができました。そして、大家族で、家にはいつも両親、祖父母の友人が集い、一緒に遊んだり話したり食事をしたり、それはにぎやかなものでした。
彼らは私にとって父や母でもあり、友人でもあり 家族でした。私の基礎はその中で築かれました。
♦子どもたちを輝いている大人に会わせたい、人と人のパイプ役をしよう!
ところが今多くの子どもたちが、近くに自然も少なく核家族という中で、人との接点も少ない環境にあります。
高速道路をいつも走り続けなくてはいけないような忙しい毎日。そんな生活の中で置きざりにされ、惑う子どもたちの心。
私の小さい頃のように、自然の中でいろいろな人たちと一緒に遊んだり体験したりできればどんなに楽しいだろうか!?
私にできることをやってみよう!!人と人のパイプ役のようなことを―――。
アメリカに住んでいた時の夢“コミュニティカレッジ”はこうして子どもたちを中心に動きだしました。
♦日本の自給率の低さ、その危機!?
外国を見聞する中で感じるのは、自主自立というあたりまえのこと、基本が欠けている自分の国の現実です。
現在、日本の自給率は約3割だといいます。食糧という最低限のものを自給することを放棄した国。そんな自立しない状況で、人々に自立心が育ちにくいことは当然のような気がします。
基本、基礎となるものがしっかりしていないのに、表面、技術だけが発達する…それはまるで基礎工事をしないまま建物を建てるようなものです。
そんな建物は全体が不安定で、所々が陥没しひびが入り、最終的には修正不可能の結果をまねく。
それは現に、今日本で起きている多くの破滅的な事件、出来事が示している通りです。
人の体の基礎をつくる「食べ物」。そして食べ物が育まれる「農村」。
「食」と「農」これは社会、人間の核なる部分であると思います。そういう思いもあって、農村とつながりを持つことは大きな意味をもつのです。
♦子どもたちのステキな感性
種は土にまかれて初めて芽が出るように、子どもたちの種も土=自然の中で体験することで、より良き芽が育っていくと思うのです。
子どもたちは、五感で感じる全てのものを、スポンジのように吸収します。
木が風に吹かれてサワサワと音がすると、「木がお話ししてる」と言う。
珍しいものを見つけると、「タヌキとキツネのいたずらだ」と大喜びする。
そんな子どもたちの豊かな感性に、ゆっくりと耳を傾けたいのです。
私一人だと味気なく通り過ぎてしまうのに、子どもたちと一緒だと歩いたり走ったり
笑ったり道草を食いながら歩く山道。
♦子どもたちとの体験の共有、感動の共有
クモの巣を的代わりにして小枝を投げ込む子がいるかと思えば、クモの巣を壊しちゃかわいそうと止める子。雨上がり、クモの巣に水滴が光る美しさに見とれる子。
草花に話しかける子。(花の絵を描くと花に顔を描く気持ちが分かるような気がします。)たった小さなことひとつにしても、彼らにとっては宇宙を見るようなものなのかもしれません。
そんな子どもたちと、同じ時間を過ごし、同じ体験をして、感動を共有することは、何よりを幸せなことです。
♦子どもたちとの体験の共有、感動の共有
クモの巣を的代わりにして小枝を投げ込む子がいるかと思えば、クモの巣を壊しちゃかわいそうと止める子。
雨上がり、クモの巣に水滴が光る美しさに見とれる子。
草花に話しかける子。(花の絵を描くと花に顔を描く気持ちが分かるような気がします。)
たった小さなことひとつにしても、彼らにとっては宇宙を見るようなものなのかもしれません。
そんな子どもたちと、同じ時間を過ごし、同じ体験をして、感動を共有することは、何よりを幸せなことです。
町の中でどんよりしていた子の瞳は好奇心で輝きを取り戻し、テレビゲームの中のバーチャルリアリティの世界では絶対に味わうことの出来ない、目の前にある本物の喜びを素直に感じる子どもたち。
私が小さい頃、心と体両方で感じていた”わくわく”する気持ちを、この子たちも感じているのだろうと思うと、うれしくなってきます
♦準備されていたかのようなステキなシナリオ
縁あって出会った農家の人たち、子どもたち、仲間。みんなで協力してやってきた数々の出来事。
町や村の人たちと喜びを分かち合えること―――とてもステキなことです。
すばらしい自然の中にある”農村”という舞台で、”気持ちの繋がり”といういちばん大事なものを中心に繰り広げられるドラマ…それはまるで前もってシナリオが用意されていたかのような感覚になることがあります。
♦体と心の体験で、人は変化していく!
大根が嫌いだったのに、大根畑で作業したあと、大根をおいしく食べるようになった子。後継者のいない夫婦の畑で手伝い、「僕が後を継ぐ」と言いだす子。「頼りにしてるヨ!」と農家の方。
川に流されて、子どもたちが一生懸命看病をして、命をとりとめた鶏たち。それを大喜びする彼らの笑顔。
具合の悪い仔牛のおなかを「よくなれ、よくなれ!」とマッサージしてくれた優しい子どもたち。
でも翌日、その仔牛は死んでしまいました。
そして子どもたちの悲しみ。自分以外の者のために流す涙。死にゆく者との別れ…大事な学びです。
「すばらしい畑で、農作業に汗を流し気持ち良かった」と話すと、その農家の方が
「他人が入ったこともなければ、そんなことを言われたこともない。とてもうれしい。
これからもその言葉を励みにしたい」
と言われたこと。子どもたちにとっても、農家の方にとっても、そして私自身、とても大事なことを学んでいるのです。
♦おじいちゃんとの思い出
失敗しながら、何かを懸命にやり遂げようとする子どもたち。そしてそれを見守る私の姿。こんな情景が前にもあったような―――
私の記憶のページをめくっていくと、それは幼い日、毎日のように一緒にすごした祖父と私の姿でした。
そして今、私は祖父と同じ立場にいて、子どもたちを見守っていることに気が付きました。
私が何かに挑戦して、失敗しても彼は黙ってただ待っていてくれました。
失敗は大切な学びであって、失敗することで、
次に成功するよう考えなければならない。
大人がやってあげたり、口をはさむことは簡単ですが、あえてそれをしない。
そのプロセスを踏むことで、そのことはその子の体に浸透し、十年後、二十年後か分かりませんが、何か解決しなければならないことに遭遇したとき、活きてくるはずだから。
すぐに手を貸すことは、優しさのように見えて実はそうではないことも多い。
その子の将来を考えたとき、絶対ぶつかるであろう壁を乗り越えられる強さを持った人になってほしいから。
これは祖父が私に対して願っていたことだと思います。
だから私は、子どもたちに対して同じように思うのでしょう。
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